外国語を勉強する意義は何でしょうか。
もちろん、その言語を使って、外国に住むとか、仕事をするとか、実利的な目的は色々あると思います。でも、その国に住まなくても、仕事で使わなくても、外国語を勉強するのは、自分の価値観を広げるという大きな効果があると思います。
先日、学習者さんから、「『シャワーが壊れていて、水になっていた』というのはどういう意味ですか」と聞かれました。
つまり「水になる」というのは、その前は水じゃなかった、違う物質だったという意味なのか、そんなことはあり得ないだろう、という疑問です。
「水」と「湯」の違いを知っている人にとっては、答えは簡単ですね。つまり「水」とは冷たい状態だけを指し、暖かくなったらもうそれは「水」ではなく、「湯」という違う言葉を使わないといけないということです。つまりボイラーか何かの故障で、シャワーからお湯が出なくなっていたということです。
この、「温度によって言葉が違う」という、一見単純な事実を知っているか知らないかで、文章全体の理解は大きく変わります。英語では、熱くても冷たくてもwater は waterで、お湯は hot waterとなるはずです。物質が同じなら温度が変わっても言葉は変わらない。しかし日本語では温度によって言葉自体が変わるのは、それを違う物と認識しているからかもしれません。
調べてみると、中国語で「湯」はスープや煮汁という意味のようですが二次的に「熱湯」や「温泉」の意味もあるようです。確かに漢字が日本にもたらされた時に、川などの清流を見てこれが「水」だと思い、地面からふつふつと湧き出る温泉を見てこれが「湯」と思ったとしたら、それはかなり違う物質に見えたことでしょう。
エスキモーが雪を表すのに、6つもの全く違う言葉を持っているということは有名な話ですが、その民族がある現象や物質を見た時、同じだと思うか、違うと思うかは、地理的、文化的、人類学的と、様々な要素が絡んでくる問題だと思います。エスキモーにとっては雪の状態は、下手をすると自分の生死を分ける重要なファクターなので、違う物と認識する必要があったということでしょう。
外国語を勉強する過程のなかで、自分の言語では一つの言葉で表現していた物を別の言語では複数の言葉で表現するという事実を知った時、それは今まで当たり前だと思っていたことが、ひっくり返るような体験になるのではないでしょうか。人によって、民族によって、世界が全く違うように見えているのを知るのは、正に価値観が覆される瞬間だと思います。
それこそが、外国語を学ぶ楽しさ、醍醐味だと私は思います。更に、そうしたことで、自分とは違う人種、ジェンダー、価値観の人に共感できる下地が作られるように思うのです。
実利的(じつりてき)practical
価値観(かちかん)value
故障(こしょう)a breakdown
単純(たんじゅん)simple
認識(にんしき)recognition
物質(ぶっしつ)material, substance
清流(せいりゅう)a clear stream
湧き出る(わきでる)gush
人類学(じんるいがく)anthoropology
絡む(からむ)involve
下手をすると(へたをすると)in the worst case
過程(かてい)process
複数(ふくすう)plural
覆る(くつがえる)overturn, overrule
醍醐味(だいごみ)real charm
下地(したじ)preparation, readiness
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